祭神

大鷦鷯命オオササギノミコト

闘鶏稲置大山主命ツゲノイナギオオヤマヌシノミコト

額田大仲彦命ヌカタノオオナカツヒコノミコト

氷室神社 拝殿・舞殿 桁行二間 梁間一間

ご由緒

元明天皇の御世、和銅3年、
勅命により平城新都の左京、春日の御蓋の御料山(春日山)に鎮祀され、盛んに貯水を起こし冷の応用を教えられました。
これが平城七朝の氷室で、世に平城氷室とも御蓋氷室とも春日の氷室とも言われます。
翌年初めて献氷の勅祭を興され、毎年4月1日より9月30日まで平城京に氷を献上されました。
奈良朝七代七十余年間は継続されましたが、平安遷都後はこの制度も廃止され、遂に150年を経て、清和天皇の御世、貞観2年に現在の地に奉遷され、左右二神を増して三座となりました。
以来、現在の春日大社の別宮に属し式年に営繕費、年中の祭礼等は、興福寺、春日社の朱印高二万石の内と社頭所禄三方楽所料二千石の一部によって行われましたが、明治維新後はこの制度も廃され、専ら氏子と冷凍氷業界の奉賛によって維持せられて今日に及んでいます。
また、本殿東側には末社として、南都舞楽の楽祖なる狛光高宿禰の霊祀なる舞光社があります。

氷室神社 御本殿
氷室神社 拝殿での祈祷
氷室神社 舞光社

奈良氷室神社の献氷祭

奈良時代、この春日野に氷池(新公会堂のあたり)や氷室(荒池・鷺池を望む浅茅ヶ原一帯を推定)を設け、氷室の守り神を祀り、春迎えの祭りを行い、順調な気候の推移と豊作を祈願する重要な祭祀が営まれたようです。

また、氷の朔日ということがあり、古来より旧暦6月1日に、宮中では氷の節会・氷室の節会があり、また民間ではこの日、歯固めと称して寒餅、凍餅を焼き、神仏に供えて食べるなどの風習があります。
寒餅とは小寒から節分までのおよそ30日の間に作られ、冷凍乾燥した餅のことで、寒さが厳しい年ほど保存度が良いといわれます。

また、正月元日の節会に宮廷では氷様(ひのためし)という行事がありました。
前年(12月)の各地氷室の氷の厚薄を奏上するために、石や瓦でそのひな形を作ったといいます。その蔵氷の厚薄をもって今年の豊凶(厚きを豊年、薄きを凶年)を占ったのです。
自然現象に兆しを見ようとする慣習から派生している農耕文化の一端と見ることができます。

奈良氷室神社の献氷祭

今日、献氷祭は全国各地から製氷・販売業者が参列し今年の業績成就を祈願する祭りとなり、業界繁忙な6月を避けて5月1日に行われています。夏期の天候が勝負という業界の人々の願いは、日本の稲作成就の条件とも同じであります。

今日ほど、冷蔵冷凍技術の恩恵にあずかっている暮らしもかつてありません。
食品、冷暖房など日常生活から最先端技術に至るまで、あらゆるところに発達した冷の技術がありますが、人間は今も順調な天候の推移に恵まれなければなりません。この祭りの続く所以でもあります。
当日は鯛(海の幸の代表)や鯉(里の幸の代表)を封じ込めた二基の大型氷柱や花氷の奉納をはじめ、かき氷の頒布、舞楽奉納などの神賑行事が行われます。

氷室神社と南都流舞楽

明治三年に廃止されるまで、氷室神社に置かれた南都方楽所を中心に奈良における舞楽が受け継がれてきました。
明治維新により三方楽人(奈良・大阪・京都)が国に召され、曲や舞が一本化されていったのが、現在の宮内庁式部職楽部の雅楽で国の重要無形文化財となっています。

しかし、上京せず地方に残った楽人や舞があり、独自の伝承が見られるのです。南都晃耀会は奈良流を重んじる有志により戦後間もなく結成されました。

結成五十周年記念事業として後継者養成のため南都流舞楽伝承教室を企画し、伝承活動が続けられています。

「神主舞 大神流 納曽利」氷室神社の神主家に相伝された右の走舞です

氷献灯 氷の中の蝋燭
氷献灯の氷室神社
氷献灯の氷室神社

毎月1日、日没頃から氷の灯篭に蝋燭の灯がともり、幻想的な雰囲気に包まれます。

詳しく見る
氷献灯 氷の中の蝋燭
氷みくじの写真
文字が浮き出る氷みくじ
文字が浮き出る氷みくじ

氷の上におみくじを載せると文字が浮かび上がってきます。

詳しく見る
氷みくじの写真
かき氷献氷の写真
御神前にお供えしたかき氷
御神前にお供えしたかき氷

夏季(6月15日から9月15日)の間、かき氷を御神前に
お供えした後、御下がりとしていただくことができます。

詳しく見る
かき氷献氷の写真

境内のご案内

氷室神社境内の図
  • 本殿
  • 拝殿・舞殿
  • 万葉歌碑
  • 神饌殿
  • 直会殿
  • 鏡池
  • 東御廊・授与所
  • 舞光社
  • 鎮守の森
  • 四脚門
  • 宝庫
  • 参拝者専用駐車場
  • 招魂社
  • 祓所
  • 鳥居
  • 手水舎
  • 仁徳天皇歌碑
  • 幄舎